鏡、大好きです。
MtFトランスはみんな、というより女というものは大概そんなものでしょう。
毛穴チェックからトレーニングまで、鏡と向き合っている時間が相当あります。
加えて、自分の作ったものが大好きです。
メモニッキも、アップする前に寝かせて楽しむことがあります。
ヒマがあれば、どこをボールドにするかで30分は潰せます。
ですが、こういうニヤニヤ感がMovableTypeで少し減る気がするのです。
鏡を見つめて充足する回路というのは、大切なものです。ナルシシズム的快楽を貪れるだけでなく、短い周期のフィードバックを繰り返して自分を向上させることができるのです。
文字どおりの見た目レベルアップから、思考実験による錬磨まで可能です。
一回自分を閉じて、ものの考えを煮詰めていく作業です。
身体の使い方でも同じことが言えます。
「ここをこうすると、足がこう動く!」とか、自分の身体を向き合って細部をコントロールしていく作業は楽しいものです。
何かを究めようとすれば、この「閉じてイメージをぐるぐる回す」作業は必須なのではないでしょうか。
ですが、時にこの回路は暴走します。
以前に「演繹的思想が妄想スパークする」ことについて書きましたが(2003.12.17)、電波ちゃんな発想などが爆発的に構造化されてしまうのは、この閉鎖回路からです。
一つ一つの分岐での選択はそれほど間違ってはいないのに、総体として見るととんでもないことになっている。それが花開いてしまった妄想です。
一体どこで間違えてしまったのでしょうか。
ツッコミが足りなかったのです。
鏡を見るのは良いのですが、鏡を見過ぎたのです。
大切なことは、わたしたちは「鏡を見ている」ようで、実は鏡そのものは見ていない、ということです。
わたしたちが見ているのは鏡像です。鏡に映ったイメージを見ているのです。
ツッコミというのは、「ここに鏡がある、それ自体は見えないけれど、確かにあるんだ!」という「『ない』がある」水準が導入されることです。
何が言いたいかと言いますと、MovableTypeで更新しようとすると、以前のオール手打ちで書いていたものほど、ニヤニヤ感覚、つまり「鏡像とグルグル」な快感がないのです。
「cgiを通しているから」とか「blogというもののイメージがなんとなくニュースっぽいから」とか「純粋な日記的なものより曝されている感じがするから」など、理由は色々でしょう。
鏡像に没入する側面がある一方で、「あぁ、何だかんだ言ってもココに鏡があるのね」というツッコミが入りやすいのです。
これが一概に良いとか悪いとかは言えないのですが、なかなか面白い発見です。
すぐに慣れてしまうのかもしれないのですが、今しばらくは違いを楽しんでみるつもりです。
鏡というのは、少し薄汚れていていて存在感がある方が良いのです。
毛穴がわからないくらい汚れると、やりすぎですが。