言わずと知れた岡崎京子の、言わずと知れた「整形美女」の物語。
こういうものをトランスセクシュアリティの話題の中で取り上げてしまう危険性についは重々承知しているつもりですが、それを覚悟の上で、やはり言及する価値はあると思います。
「整形の末の悲劇」のように読んでしまえば、まったくの誤読でしょう。その向こうにある何かに走るのが人間なのです。
「わたしはどうなってしまうの」「わたしは間に合うの」「その前になんとか」。こういう「焦り」のような感覚というは、実は少なくないMtFに身に覚えがあることではないかと思います。ここにトランスセクシュアリティを還元することは断じてなりませんが、ある種の「サイボーグ性」に対する極めて複雑な感情というのは、トランスセクシュアルと深い関係があるはずです。
繰り返しますが、これはトランスセクシュアルが人造人間だ、などという一時期のフェミニズムから加えられた滑稽な中傷ではありません。むしろ人間はすべてサイボーグであり、そのサイボーグ性に抗っているのがトランセクシュアルなのです。
物理的、生理的には、むしろトランスセクシュアルは「普通の人」より人造的でしょう。しかし身体に対する意識の持ち方としては、不整合な感じ、間に合わない感じ、これを意識化してしまうという意味で、自らのサイボーグ性に対して神経過敏なくらいなのです。「普通の人」というのは、要するに作られてあることに慣れ切ってしまっている人々のことです。
おそらくは「サイボーグとしての自らに楔を打ち、存在を許可されるために、(不具を治すために一層不具になるという)「治療」を通じてよりサイボーグ化する」という「ケジメ願望」のようなものが重要なはずです。
この辺りについては、