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二人の女は女のない場所で出会う | eternal transition::ジェンダー/セクシュアリティ
Categories: トランスセクシュアリティとフェミニズム

二人の女は女のない場所で出会う

 「『女らしさ』と『女であること』を巡って」で触れたように、MtFトランスセクシュアルが求めているはずのものは、「女らしさ」ではなく「女であること」のはずです。もしもジェンダー・ロールという意味での「女らしさ」であれば、「女らしい男」という選択肢もあったはずで、それを否定しなお「女」を主張する以上、ジェンダー・ロールという社会的構築物(ほとんど風俗的構築物とすら言える!)をはぎ取った純然たる「女であること」「女そのもの」という仮構が、少なくとも理論上は想定されていなければおかしいことになる、ということです。
 おそらくこの過程で措定されるものこそ、いわゆるジェンダー・アイデンティティなるものなのですが、一方であらゆる「女らしさ」「社会的に定義された女」を捨象して析出される透明な「女」とは何か、という疑問がかえってくることは前にも触れました。
 トランスセクシュアルの場合は、それを身体という形でかろうじてひっかけようとするのですが、しかし言うまでもなく、トランスセクシュアルの求める(修正して性自認に近づけたい)「生物学的性」とは、第二次性徴に代表される社会的な記号にすぎず、文字通り性感化された部位にジェンダー・アイデンティティなる透明な欲望がひっかけられている、としか言えないものです。

 このことを考えると、「トランスジェンダー/トランスセクシュアルとフェミニズム」で、容易な「共闘」は許されないどころか、かなり根底的なところで対立的関係にあるフェミニストとの間に、ほとんどあり得ない(不可能な)決定的な共通点があることがわかります。
 本質主義的な立場を取る場合はおいて、社会構築主義的スタンス、つまりフィメールなるものが生物学や遺伝子等に基礎づけられるのではなく、社会的な構築物にすぎず、なおかつ既成のジェンダー・ロールを「家父長制のフィクション」とでも切り捨てるなら、フェミニストはMtFトランスセクシュアルと同様、「女らしさ」を一切はぎ取った「女であること」という問いに直面せざるを得ないからです。
 彼女たちがMtFトランスセクシュアルほどこの点に関して切迫していないのは、「何をやっても本当に女でなくなることはない」という暗黙の想定があるからです。もちろん「お前なんか女じゃない!」などと誹謗されることはしばしばでしょうが、bipolarなジェンダー・システムに懐疑を抱くまともなフェミニストなら、むしろこんな罵倒は勲章といっても良いでしょう。極めて逆説的ですが、「そんなの女じゃない!」と言われれば言われるほど、彼女たちは「女としての誇り」を高めることができるのです。
 しかしこの高められる「女」が、やはり脆いものであることは、トランスセクシュアルという「モンスター」(かつて一部の愚劣なフェミニストに加えられた中傷によれば)の存在によって容易に証し立てられてしまいます。しかも社会構築主義者は、遺伝子等の外的因子によってMtFの「女」を全否定することはできず、その結果、仮にそれまでこの問いが差し迫っていなかったとしても、「ではこの残された女とは何か」という問いに向き合わざるを得なくなります。
 そこで想定されるのは、やはり透明で実態のないもの、というより他にありません。語の定義からして「フェミニスト」が「フェミニスト」であること自体が危うくなるのです。行動としては、やはり何らかの形で社会的に定義された女に「ひっかけて」いくより他にありません。
 ただしこれは、「透明なジェンダー・アイデンティティやら『女そのもの』の仮構など無意味だ」などという意味ではまったくありません。このような反動がまかり通っている世の中だからこそ、むしろ声を大にして叫ぶ必要があります。
 そこに何もないからこそ、わたしたちはこの仮構を手放してはならないのです。何もなさに覆いをかけ、そして状況をドライブしていく力を産み出すものこそ、この根源への問いなのです。
 問いとは、答えによって閉じるものではありません。むしろ答えのないところに立てられてしまった不幸な問いこそ、強力に事態を展開していくエンジンとなるのです。
 そこで展開される運動は、一つ一つの言明をとってみれば、十分にvalidとは言えないものになるでしょう。しかし、とにもかくにも何事かが為されたのです。つまり、行為の次元では予期もしない真理を表してしまったりもするのです。プロセックス・フェミニズムのような、一見極めてアンチ・フェミニズム的思想が、極めて先鋭的な形でまぎれもなく「フェミ」であるように。
 これが闇雲な問いを称揚することと誤読されては不幸ですが、ある種の「答えのなさ」においてこそ、二人の女、MtFトランスセクシュアルと社会構築主義フェミニストは出会うのです。
 問題はその後であって、この「女のなさ」に怖じ気づくのか、あるいはその向こうに力づくで「女」を投げ、断固として「フェム」を言う不可能を続けるのか、そこが勝負の分かれ目です。
 正にこれが不可能であるからこそ出会いの名に値するのであり、逆に言えばやはり、「アイデンティティ」なる戯れ言に振り回される限り、MtFとフェミニストに出会いなどないわけですが。

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