トランスジェンダー/トランスセクシュアルは、ジェンダー・アイデンティティを問いの中心に据える者とされます。自分が男なのか女なのか、それが問題というわけです。
それゆえ、ヘテロセクシュアルMtFはゲイと混同されることを非常に警戒します。男性を性対象とすることをもって「ゲイ」と呼ぶなら、それは男と見なされているに等しいからです。性対象と性自認の独立性を強調する下りは、どんなトランス関係のテクストにも見出すことができます。
この性自認、ジェンダー・アイデンティティなる概念については、繰り返し疑念を投げかけていますが、いま一つ別の視点をメモしておきます。
先日のワークショップでも述べましたが、「普通の人は性自認と生物学的性が一致している」というよく見る表現は不正確です。普通の人は、生物学的性や社会的性から独立した性自認などという概念はそもそも持っていないのです。逆に言えば、トランスとはこのような「透明な性」を問いとして立ててしまう者と考えられます。
トランスは自認と他認のズレ、例えばMtFなのに男とみなされてしまうことを非常に警戒します。普通の人はこんなことを考えません。それは「性自認と生物学的性が一致しているからだ」と言われますが、彼らには性自認自体がないのですから(この枠組みによって思考していない)、ズレなど可能性としてすらあり得ないのです。
では一体、この自らの性を問うという態度は何を意味しているのでしょうか。
これは「わたしは誰なのか」という根源的な問いと照応するものです。普通の人はこんなことを考えませんし、もし「お前は何だ?」と聞かれたら、「山田です」とか「○○株式会社の者ですが」などと答えるでしょう。つまり、What am I?という問いだけがあり、Who am I?とは考えないのです。もう少し正確には、Whoという深淵を覗き込むような恐ろしい問いを、Whatで覆いかくしているのです(この表現は田崎英明『ジェンダー/セクシュアリティ』から拝借しました。大変な良書ですので是非参照して下さい)。
黒沢清の『Cure』という映画があります。人格というものを持たないような催眠術的能力を持った青年が、出会う人を「無意識にマインドコントロール」し、殺人を犯させていく物語です。拘束された青年は尋問を受けるのですが、彼には主体というものが存在しないかのようで、のれんに腕押しな感触に警官たちは苛立ちます。ふと青年が問います。「あんた誰?」。ただでさえもいらついていた男は、「刑事部長の○○だ!」と怒鳴り返します。これに対し、青年は今一度問うのです。「刑事部長の○○、お前は誰だ?」。
この問いが非常に冷徹で、返す答えを持たないのはおわかりでしょう。Whatをすべて引き出された上で、なおWhoを問われるというのは、自分の中にある黒い空洞を覗き込むことなのです。
トランスの問いはこの点を周回しているように見えます。ただし、トランスがWhoの根源と向き合う勇気ある者かというと、そうではありません。Whoの問いをすぐ視界の隅に感じているからこそ、男や女という最も始まりの答えをもってこれを塞ごうとしているのです。
MtFがいかに女を主張しようと、どこかに男が残り続けるのは再三指摘している通りです。ノンカム完全潜伏ですと、自分だけが残った「男」を知っている、という皮肉な状況にすらなります。これは「MtFは結局男だ」などとジャニス・レイモンドのような愚を吐いているのではなく、男や女によって塞いだはずの穴が、それ自体ほころびていっているのをトランスは知っている、ということを指摘したいのです。知っているからこそ、ヒステリックに自認と他認のズレにこだわり、漏れてくるWhoから身を守ろうとするのです。
そしておそらく一度開いてあわてて塞いだWhoという問いは、知ってしまった以上簡単には逃げることのできないものです。「わたしは女、わたしは女」とかぶりをふるように繰り返しながら、なお何か欺きが残るような「成り切れなさ」を一生背負い続けるのです。
トランスがこの問いから解放されることはあるのでしょうか、
先日のワークショップでヒントとして取り上げたのは、恋愛でした(「トランスの含む二律背反と恋愛」参照)。
言うまでもなく、恋愛とは不合理なものです。ある人を好きになるのはその人の属性が好ましかったからとは限りません。「巨乳好き」を自認する男に限って胸のない女と付き合っていたりするものです(笑)。そして「好き」などという感情自体、お腹を開いて確認することのできないものですから、状況に身を任せながら「これは好きということなのだろう」と納得していくのです。
よく中学生くらいの恋した子が、友達に相談して「オレ、あいつのこと好きなのかな?」などと問いますが(今の子はそんな青臭いことしませんか?)、これなどが典型です。好きという気持ちを抱いているのは当人なのに、その自分の気持ちを人に尋ねているのです。つまり、ここでは自分を駆動している「本質」が、語らいの中で醸成されていることが明らかになっているのです。
恋愛とは、究極的に個別的な経験であり、その根拠をそれ自体の内にしか持ち得ないものでありながら、つきつめると他者との関係によって決められているものです。しかしこの「割当て」は、決して強制的に押し付けられるものではなく、それこそ運命のように降ってくるものです。「どうして好きなんだろう?」と自らの心を覗き込んでも答えはなく、一般的な要素として外在化させるわけにもいかず、ただ問いが消滅するのです。
わたしたちが男であったり女であったりというのは、これと非常によく似ています。一般的には「生まれながらのもの」として疑問が付されることもありませんが、これはWhatですべてを乗り切ろうという安穏とした態度です。ではWhoと問えば良いかというと、その極限には空洞の自己があるだけで、答えはありません。トランスはそれが「ない」ことに気づき、慌てて「性自認」で蓋をしたのです。性自認には欺瞞的要素が間違いなくありますが、それは何かを隠しているというより、そこに何もないのを隠しているのです。
問いからの解放とは、恋愛における「運命」のような体験を通じ、蓋をする行為から逃れ、隠すのをやめることです。つまり、ないものをないものとして扱う、という、あたり前の状態に移行するのです。「あるがまま」などといいますが、むしろ「ないがまま」が妥当です。
これも所詮は一つのトリックであり、恋愛の魔術と同様解ける時が来るのかもしれません。しかし完全な人生などありませんから、やはりこれしか方法はないのです。