先日、久しぶりに戸籍上の性別のことを話さなければならない機会がありました。
航空券を購入するのに、パスポートと一致している必要があったのです。
某旅行会社のカウンターで、四十代くらいの男性の方がお相手だったのですが、一瞬動揺させてしまったのか、「あ、いえ、わたしは気にしないんですけどね、最近はほら、テロとかそういうので、うるさいんですよ」という台詞が出てきました。
まず最初にお断りしておきますが、このヒトに一ミリも悪意はない、ということはよくわかっています。
ちょっとトークがぎこちないヒトでしたが(笑)、チケットもすんなり希望のものが取れて、とても満足しています。
ですから、以下の記述については、このヒト個人がどうこうとかいった問題では全然なく、人間の思考様式一般のことだと了解してください。
本題です。
「気にしない」そうです。
ほかのトランスセクシュアルの考えていることはよく知りませんが、こういう風に言われると「よかった」とか「受け入れてもらえた」とか感じたりするものなのですかね。
わたしはかなり不愉快です。
「気にしない」? わたしがあなたに気にされたりされなかったりする可能性が何かあったのですか?
まさか「気にしない」であげることで、ちょっと優しいヒトか何かになっちゃった気分なんですか?
そして「気にされる」としたら、それはわたしの方であって、あなたではないということは当然なんでしょうかね?
逆に「オレみたいなウダツのあがらないハゲかけのオッサンが応対しちゃって、気にしないかなぁ」とかそういう可能性は脳裏もよぎらないんですかね(笑)。
「気にしない」などと平気で口にする人は、要するに自分が「スタンダード」で安全圏にいるということは一ミリも疑っていないわけです。余裕しゃあしゃあです。
大昔に『「偏見のない」人を偏見の目で見てみる』でもまったく同じことを書いていて、我ながら発想に進歩がないとは思うのですが、こういう人たちの無防備さと根拠のない自信には恐れ入ります。
気にしようが気にしまいが、そんなことこそわたしは「気にしない」、というか興味もないですが、むしろ自分が「気にされ」ちゃう危険を心配された方がいいですよ。
ヒトはどんな理由でも、あるいは理由などまったくなくても、「気にされる」側に墜ちる可能性をいつでも抱えています。
ただちょっと言葉遣いがぎこちないとか、単に青森出身だとか、何の合理性もなくさっぱり意味のわからないきっかけでも「気にされ」てしまったりするのです。
「ボクは気にしないから」などと言う人は、そういう危険はまるで想像もできないまま、高所から見下ろして余裕な気分にでも浸っているのでしょう。まぁナントカと煙は高いところにのぼると言いますし。
以前友人(女子)と話していて、その友達の友達の「『キモイ』という言葉は絶対言っちゃいけない台詞だと思っていた」という発言について、実に気分が悪い、ということで一致しました。
確かに『キモイ』というのは残酷な言葉です。あまり気安く口にすべきではないでしょう。
しかしそれを「絶対言っちゃいけない言葉」などとしら〜っと正論を吐けてしまうお嬢様は、自分が言われる立場になるという可能性については、まるで考えたことがないのでしょうか。
自分にそういう危険があって、そして「幸い」にも『キモイ』ターゲットが自分以外に設定されていれば、ヒトは身を守るために平気で攻撃に参加するものなのですよ。
もちろん、そんな「イジメ」に加わるのは褒められたことではありません。
しかし安全圏から「言葉の暴力」などと殺菌済みの正義を振りかざすのは、「イジメ」に加わり「気にする」側に立つ人よりもっと醜いです。
本気で暴力の連鎖を止めるなら、自分がターゲットになる覚悟をもって、銃口の前に立ちふさがるべきでしょう。
少なくともその可能性については重々に承知の上で、論を吐いて欲しいものです。
わたしは何の変哲もないちっぽけな小市民ですから、やられる危険があれば迷わず先に引き金をひきます。
余裕があるときなら人助けもするかもしれませんが、自分の身が一番可愛いです。
差別もします。ホモっぽいオトコもデブもキライです。
電車で腋臭の人がそばにいるときは、手術して欲しいと思います。多分SRSより簡単ですし(笑)。
ただ大きい声でそういうことを言うと、自分の身がかえって危険にさらされるので、気をつけて口をきいているだけの話です。
そういう小汚い人間同士が、横並びでけん制しあったり、イジメたりイジメられたり、時に許しあったり、暗黙の安全保障を結んでみたり、それが普通の人間関係というものでしょう。
一方的に「気にしない」などと許可していただく理由は一片もありません。
追記:
確か世田谷区議の上川あやさんを取り上げた新聞記事で、彼女の女性用トイレ使用について、他の女性議員の「気にしないよ」という台詞が取り上げられていた箇所があったように思うのですが、これもご本人は何か気の利いたことでも口にしたつもりなんでしょうね。またそれが記事になっているということは、新聞記者としても、ネイティヴが「偏見のない」「寛大な」心を示した美談だと考えたのでしょうか。
逆に言えば、こういうネジが五六本足りない方々と日々直面しながら活動しておられる上川さんのような方には、実に頭が下がります。