(このテクストは当初、「〈女〉を巡って」および「真夜中のトランス」の前座的ポジションとして、トランス問題についてかなり茶化した調子で語るために用意されたものです。相当バイアスのかかった内容で、ほぼMtFのみを話題にしており、また筆者の主眼自体上のテクストにあったのですが、一つのものの見方として試みに公開してみるものです。なお、筆者は現在の性同一性「障害」治療を全面的に是としているわけではありませんが、これを否定したり先人の労苦を軽んじようとする意図はまったくなく、実際個人的には多いにお世話になっていることを明記しておきます)
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前項ではTSカルチャーが「病気」という見方に囚われていること、「病気」から「生き方」へと視点を移動させていくことについて述べました。
しかし実は、GID当事者の少なくない人が、そもそも最初から自分を「病気」などと考えてはいません。非常におおざっぱに「TSカルチャー」としましたが、その表向きの主張とTS一人一人の本音の間には乖離があるのです。
同性愛者が「ホモで困っているんです」と精神病院に駆け込む、ということは今ではほとんど見られなくなったでしょう。確かに困ることもあるでしょうが、大抵の人はそれを「病気」だとは考えないからです。
困ったことなど、世の中にはいくらでもあります。お金がなくても困ります。ですが、それは別に「病気」ではありません。精神病院よりは職安や福祉事務所に行くのが正解です。
しかし、トランスに関しては簡単にことが運びません。一重瞼の人が埋没法を受けたり痩せたい人が脂肪吸引をするようには、ホルモン剤を手に入れたりSRSすることはできないのです。母体保護法によって「故なく、生殖を不能にすることを目的として手術してはならない」と規定されているからです。本人が希望しているからといって、勝手に「タマ抜き」などをしてしまうと、お医者さんが捕まってしまうのです。鼻を高くするのは合法なのに、去勢や「性転換」は違法なのです。
母体保護法はもともと優生保護法といって、二つの目的を持った法律と言われています。一つは「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」、もう一つは「母性の生命健康を保護する」というものです。一見聞こえが良いですが、「保護」される「母性」とは、要するに「健康な子供だけを国家に必要な数だけ産む生殖機能」であって、生殖を国家の人口政策・優生政策の中に位置づけるものです。障害者差別を助長するばかりでなく、女性の人工妊娠中絶の自由も奪う法として批判されることもしばしばです。
GIDが威力を発揮するのが、この点です。言ってしまえば「この人は精神を病んでいて、ホルモンを打ってあげないと自殺するかもしれない」ということにしておけば、「治療」の道も開けるのです。悪い言い方をすれば方便です。TSカルチャーの表向きの主張や医療業界の公式見解がどうであれ、「本音」のところでは方便として活用している部分が少なくないのです。TSとして生きている人の多くが、実は「病気」ではなく「生き方」としての認識を持っていて、ただ生きるツールとして「病気」を活用しているのです。
このような二重性には問題もあります。現在女性として普通に生活しているある元職業ニューハーフは、「わたしはGIDじゃないから」と医療管理下に入っていません。GIDの診断を受け治療下にある人でも「自分は『なんちゃってGID』じゃないのか」と悩む人がいます。真面目で真摯な人ほどGIDという「便利な病気」を避けてしまうのです。また〈生き方としてのトランスジェンダー〉を主張してしまうと、そもそもGIDの思想と相容れない、という前項で取り上げた問題があります。
一方で、ツールとして「病気」を活用するTSの姿にも、どこか卑屈な陰があります。パット・カリフィアは『パブリック・セックス』の中で「トランスセクシュアルは、メサドンを貰うためにはなんと訴えたらよいか知っているヘロイン常用者のようなものだ」としていますが、TSの現状をよく描写しています。GIDに二重構造があるために、当事者の心中では後ろ暗い気持ちと「仕方ないじゃないか」という開き直りが揺れ動いてしまうのです。最下層の者がシステムに擦り拠る典型的な姿です。
この葛藤をよく反映したものに、「真のTS論争」があります。最近はあまり聞かなくなりましたが、「子供の頃から自分の身体に違和感を持ち、性器を切断したいと思った」といった「典型的なGID像」に合致するものが「本物のGID」であり、他のあやしげなニューハーフまがいのものはGIDではないのではないか、といった論争です。TS原理主義者と呼ばれた人々は「Transvestiteから区別される真性transsexual」「本物のGID」を追求し「TSは性器に奇形があるだけなのだから、ノンパスやカムする者は真のTSではない」「ネットで有名な誰々はGIDじゃなくて女装だ」「趣味の女装のようなヤツにウロウロされると、性同一性障害の理解の妨げになる」といったことも語られました。本書でTSカルチャーとして戯画化している思想の、極端な例と言えます。
「典型的なGID」が存在しない、とは言いません。ですが第一に、それはGIDの診断を必要する人の極一部にすぎません。第二に、「真のGID」イメージが一人歩きした結果、自己洗脳のように自分の歴史をその型に当てはめて解釈してしまっている当事者が少なくありません。そして第三に、そもそもGIDとは真贋を問える事柄なのか、という問題があります。真贋が問題になるからこそ「我こそはGID」「自分はGIDじゃないから」といった様々な葛藤が生まれるのです。しかし実は、GIDにはそもそも本物も偽者もないのではないか、という可能性があるのです。
この点を詳しく見てみましょう。
もう一度「GIDとは何か」というところに立ち返ってみます。前項で取り上げたDSMの最新版DSM-IV-TRには、以下のような記述があります。詳細部分は省き、主要な四つの基準だけ転記します。
A. 反対の性に対する強く持続的な同一感 (他の性である事によって得られると思う 文化的有利性に対する欲求だけではない)。
B. 自分の性に対する持続的な不快感、 またはその性の役割についての不適切感。
C. その障害は、身体的に半陰陽を伴ったものではない。
D. その障害は、臨床的に著しい苦痛または、 社会的、職業的または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている。
これがGID、とのことです。そしてGIDとはこの記述以上でも以下でもなく、記述の向こうに実体としての「本物のGID」があるわけではありません。どういうことでしょうか。これを理解するには、DSM自体の成り立ちを考える必要があります。
DSMとは前述の通り、アメリカ精神医学会が作成した精神障害の診断と統計マニュアルです。標準的な疾病分類を目的に1952年に第一版発行、その後改訂を重ねて現在はIV-TRが最新版です。DSM-IIIより力動論的視点、つまり原因とプロセスから精神疾患を考える旧来のスタンスの排除が進められ、現在のDSMは自ら「理論抜き」を標榜するほど現象記述的な構成になっています。
その背景の一つには、精神疾患の「原因」に未解明の部分が多いことがあります。それでも「診断」を下さなければならない現実がある以上、「病気」というよりは「症候群」の単位でものを考え、ラベリングしていこう、という姿勢が基本に据えられているのです。
普通、わたしたちが熱を出して内科の先生のところに行くと、「風邪です」とか「インフルエンザです」といった「診断」を下して貰えます。その上で、「診断」に基づいた「治療」が行われるのです。一方、DSMというのは症状の一定の条件を記述しただけのものです。病院に行って「熱があるんですけど」と訴えると、「君、それは『熱』だね」と言われてしまうようなものなのです。
現実に押し寄せてくる患者さんへの対応が迫られる以上、致し方ない部分もあります。また、このような簡潔で現象的な基準を元に統計的に診断してくことの効用も、もちろんあるでしょう。ですが、DSMの言う「診断」は、わたしたちが常識的に考える診断とは少しズレているのです。DSMの言う「疾病」はわたしたちが普通に考える病気ではなく、単なる「症状の束」とすら言えるのです。
極端な話、GIDを規定しているいくつかの項目をクリアしていれば、その人は立派なGIDです。disorderと呼べる何かであるかは別の問題として、です。「何が原因か」とか「本当のところ何なのか」などはどうでもよいのです。
ですから、DSMや冒頭で紹介したICDの記述を金科玉条のように信じ込んで「真のGID」を語るなど、愚の骨頂です。「四本足でワンと鳴くものは犬である」と書いてあるものを、「ウチの犬は事故で足が一本足りないから、『本当の』犬ではないかもしれない」などと議論するようなものです。
「診断書上のGIDの向こうにある真のGID」など存在しません。「典型的なGID」が存在しない、という意味ではなく、GIDという概念自体が実在を指し示す性質のものではない、ということです。ただの条件なのですから、方便に使うことをためらう必要もなければ、使っていることを後ろ暗く思うこともありません。そこに思想がない以上、〈生き方としてのトランスジェンダー〉とも別段矛盾しません。
これはGIDが詐病である、という意味ではありません。GIDに該当する人々は紛れもなく存在します。ただ、これはかつての疾患しての同性愛と同じく、病気という概念の臨界に位置するものです。本来は同性愛と同じく病気という認識自体を外していくべきなのかもしれません。しかし母体保護法などの現実的障害もあり、何よりここで言う「病気」とは病気の名に値しないような条件の束である以上、保存して〈生き方としてのトランスジェンダー〉とすりあわせていく方がサバイバル術として有効と言えるのです。
「わたしたちは病気ではないから、DSMの記述から外すべきだ」と主張する必要はありません。なぜなら、DSMは初めから、わたしたちが普通に考える種類の「病気の診断」をしているわけではないからです。GIDには真贋などありません。「なんちゃってGIDじゃないか」などと悩む必要もありません。「なんちゃって」だろうが何だろうが、診断書があれば「GID合格」であり、それ以上でも以下でもないのがGIDです。
またこれは、DSMを使った精神医療を否定するものでもありません。少なくとも困った当事者を救済していることは事実ですから、精神医療の本義にも沿ったものです。
それでも、何らかの形で精神疾患として診断されていることについては、負い目に感じる向きもあるでしょう。「病気」を盾に取ることを卑劣に感じたり、逆に「病気」であることをスティグマや社会生活上のマイナスと考える場合もあるでしょう。ですが、少なくともDSMの下している「診断」に良い悪いはないのです。繰り返しになりますが、そこには何らの価値判断も含まれていません。
確かに世間は、精神疾患を髄膜炎やリウマチと同列には考えていません。髄膜炎であることはその人の人間性とは何の関係もありませんが、これが精神疾患となると、良きにつけ悪しきにつけ当人の本質に根ざしたものと認識されてしまいがちです。ただし、これは「精神の」病だからではありません。HIVに対する偏見に見るように、単に特定の疾患に対する社会的な価値付けがあるだけです。もちろん、馬鹿げた偏見です。ですが、もし防衛的になるあまり「病気」であることを避けるとすれば、このような誤った価値付けに加担してしまうことにもなりかねません。「病気」から「生き方」へと開き直ることの内には、「病気」と診断されることをも開き直る決意が含まれているのです。
重要なのは、DSMに振り回されないことです。たとえ毒でも、うまく使えば薬になるものです。DSM自体に善も悪もありません。生かすも殺すもユーザー次第です。