(このテクストは当初、「〈女〉を巡って」および「真夜中のトランス」の前座的ポジションとして、トランス問題についてかなり茶化した調子で語るために用意されたものです。相当バイアスのかかった内容で、ほぼMtFのみを話題にしており、また筆者の主眼自体上のテクストにあったのですが、一つのものの見方として試みに公開してみるものです。なお、筆者は現在の性同一性「障害」治療を全面的に是としているわけではありませんが、これを否定したり先人の労苦を軽んじようとする意図はまったくなく、実際個人的には多いにお世話になっていることを明記しておきます)
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「病気」から「生き方」へ、という視点の理解のために、同性愛と精神疾患の関係について寄り道してみます。
冒頭で性同一性障害、つまり「病気としてのトランス」を理解するのにICD-10を参照しましたが、ここではアメリカ精神医学会APAが発行している精神疾患の診断マニュアルDSM Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disordersを参照してみます。最新版のIV-TRを紐解くと、ここにも性同一性障害は疾患として登録されています。一方、同性愛については見当たりません。かつてのDSMでは精神障害の一つとして定義されていた同性愛ですが、1973年の改訂にあたり削除されました。数年後のDSM-IIIでトランスセクシュアルTranssexualの語が最初に取り入れられたことを考えると、なかなかに象徴的です。
同性愛を精神疾患として捉える考え方は十九世紀から二十世紀初頭にかけて形成されたと言われています。同性愛解放を求める運動はありましたが、まずはマイノリティの地位確立が目指されたことから、場合によっては自ら「異常」として迫害から身を守ろうとすることもありました。これを打破するきかっけを作ったのは、70年代から80年代に大きな盛り上がりを見せたレズビアン/ゲイよる解放主義的運動でした。1969年、転機となる事件が起きます。ゲイバーに対する警察の嫌がらせに怒ったゲイたちが、後にストーンウォール暴動呼ばれることになる大規模な争乱を引き起こしたのです。これを一つの転回点とし、異性愛者と同じであることを主張するのではなく、非異性愛アイデンティティを前面に押し出す方向へと運動は向かっていきます。スティグマとして負わされていた同性愛のレッテルを、レズビアン/ゲイというポジティヴなアイデンティティとしてとらえなおしたのです。
1970年、ゲイの活動家がAPAの年次総会に乗り込み、会場は大混乱に陥り、翌年のワシントン総会も街頭デモによる混乱に巻き込まれます。72年、衝撃的な出来事がAPAを襲いました。精神科医の一人が、匿名でゲイであることを告白し、二百人以上のゲイのAPA会員がいることを暴露したのです。73年にはゲイの発言者を交えたパネル・ディスカッションが設けられました。この年ついに「同性愛それ自身は精神障害とはみなされない」として精神病の公式診断分類から削除されました。代わりに「性的指向障害」、80年DSM-IIIでは「自我違和的な同性愛」という診断名が残りましたが、その後のDSM-III-Rでこれも解消されました。「自らの性的指向に悩み、葛藤し、それを変えたいという持続的な願望を持つ」つまり同性愛自体ではなく同性愛による心的葛藤を指す言葉でしたが、同性愛そのものが障害と見なされないとして、最終的にはこの表現も姿を消したのです。
これに対し、TSカルチャーは「病気」としての立場に囚われ続けています。DSMから外すどころか、積極的に疾患としてのGIDを認めてもらおうとしてすらいます。その様子は、自ら「異常」を訴え社会の中で居場所を見つけようとしていた時代の同性愛解放を連想させます。
トランスの「原因」には諸説ありますが、比較的有力なものにホルモン異常説があります。染色体上の性は受精の瞬間に決まりますが、性の分化・発達の過程はその後も続きます。脳の性分化は受精後二十週目くらいから始まりますが、この段階に何らかのホルモン異常があると、染色体上の性別と性自認の間にズレが生じるのではないか、ということです。この説が妥当であるのか否かについては、今後の研究を待たなければならないでしょう。しかし、ここにトランスの問題を還元してしまうとしたら、それはかつての「同性愛生物学的原因説」のように、「異常」やさらには「劣等性」をもってかろうじて地位を見つけようとする態度と変わらなくなってしまう恐れがあります。生物学的な「原因」を見つけることは、「病気だから仕方ない」として当事者を拾い上げる営みでもありますが、同時に当人の主体性とは無関係のところで生の有り様を決定されてしまう危険を孕んでいます。
ゲイル・ルービンは『性を考える』の中で「セックスのヒエラルキー」という面白いチャートを示しています。04.10.15一番上位には「『善良な』セックス」が位置し、異性愛、結婚している、乱交的ではない、生殖を目的とする、などが含まれています。つぎに「せめぎあっている主要な領域」があり、ここには結婚していない異性愛のカップルや乱交する異性愛者、そして長期にわたって安定しているレズビアンやゲイのカップルが相当します。最後に「『邪悪な』セックス」があり、トランスヴェスタイトやトランスセクシュアル、フェティシスト、小児性愛者などが放り込まれています。トランスは最下層の「どうしようもない変態」に分類されているのです。
非常に低い位置にある社会階級は逆にシステムに同化しようとする、という傾向があります。中位にカテゴライズされているなら、権利を主張し「生き方」も認められようものですが、最下層となると簡単には逆転できません。階級や社会集団としての団結すら得られず、システムの中で生き場所を見つけるのに精いっぱいになってしまうのです。トランスの歴史の浅さからして、依然このような卑屈な地位にあると考えることもできるかもしれません。
ただしもちろん、トランスと同性愛を単純に比較することもできません。第一にトランスの場合、ホルモン治療やSRS、いわゆる「性転換」といった医療行為を必要とする場合が少なくなく、現行の法制度の下では「病気」としての認定なしでは望む生活を得ることが難しいです。第二、カムアウトという形で可視化されるレズビアン/ゲイに対し、トランスは人によっては一目でそれとわかってしまい、仮に見分けがつかなかったとしても戸籍等から元の性別を判別されてしまいます。第三に、非常に重要な点として、TSカルチャーにおけるトランスとは一つの移行過程であり、トランスであること自体に価値があるものではない、という点があります。これについてはいくつかのスタンスがありますが、概括して言えばMtFの目的は「女として生きること」「女の身体を手に入れること」であり、「トランスとして生きること」ではないのです。するとレズビアン/ゲイの場合のように、それ自体にアイデンティティを求めることは難しいことになります。
これらを鑑みると、実はトランスと社会の関係には二つの全く反対の方向性が孕まれていることがわかります。一つはトランスであることをアイデンティティとして引き受ける〈生き方としてのトランスジェンダー〉という立場です。70年代から80年代にかけてのレズビアン/ゲイ・スタディーズと共鳴する部分が大きいでしょう。もう一つは、トランスがトランスであることには重きを置かず、ヘテロセクシズムの枠組みに同化していこうという立場です。「MtFは本来女であり、『治療』によって正しい身体を取り戻す」といったTSカルチャー的主張に表れるもので、「病気」としてのGIDの考え方の根底を流れるものです。ホルモン異常説などの生物学的還元論も、この系譜に属すると言えるでしょう。
実際、社会運動としてのトランスはこの二つの流れに分断しつつあります。戸籍修正等といった形で既成の枠組みの中での権利を勝ち取っていこうとするグループと、枠自体の解体、あるいは揺さぶりを目指す人々です。同じトランスの社会運動でも、根本思想において両者は大きく食い違っています。もちろん接点や共通の利害はあるのですが、『トランスジェンダリズム宣言』の米沢泉美さんなどは「もう運動は別々にやった方がいいのではないか。共闘できるところはすればよいのだ」と主張されています。
同じ対立軸をフェミニズムとTSカルチャーの間にも認めることができます。TSカルチャーが好んで援用する例証に、ジョン・コラピントによる『ブレンダと呼ばれた少年』があります。生後間もない時期に手術ミスでペニスを傷つけられた少年が、少女として育てられたケースを扱ったものです。かつては性自認が社会構築物にすぎず、変更可能なものである証左としてフェミニストに取り上げられていた事例でした。ところが、実はこの少年は男性としてのアイデンティティを失っておらず、手術を受け直して男として生きることを選んでいたのです。この暴露以後、フェミニストはこれを取り上げることを避け、逆に「性自認は変更不可能」として一気にTSカルチャーの聖書に祭り上げられたのです。
医療の必要性、トランスの目的が望む性で生きることであることを考えると、後者のスタンスもよく理解できます。「すりより」にも一定の理があるのです。しかし、いかなる医療技術を駆使したところで、トランスがネイティヴと全くイコールになることはありません。トランスは移行過程ですが、この移行が完遂できないのです。するとトランスであることを「病気」やスティグマとして捉え、そこからの脱却を図る考え方では、結局いつまで経っても最下層から抜けだせないことになります。
だからといってもちろん「男が女になるなんてのは無理な話であり、贅沢だ」などというのではありません。ただ、営みを諦めないながらも、移行の先にあるものだけではなく過程自体を評価しない限り、常にマイナスの評価しか得られないことになります。これを脱するには、やはりトランスのトランスとしてのアイデンティティを求めるより他にありません。そのためには、「男/女」の枠組みの中での性の変更を目指すだけではなく、「男/女」自体に揺さぶりをかけていくことが必要になります。
戸籍の性別変更を求める運動は、一見するとトランスの解放に見えます。もちろん、一定の意義はあるでしょうし、これに尽力した人々の努力は尊敬に値します。しかし、戸籍の変更可能性とは、逆に言えば「男/女」によって登記される現行の制度を補強してしまうことでもあるのです。米沢泉美さんはその著書『トランスジェンダリズム宣言』で、戸籍制度そのものを撤廃を訴えていますが、〈生き方としてのトランスジェンダー〉の立場としてよく理解できます。トランスがトランスとしてのアイデンティティを持つならば、「男/女」自体を越えていく必要があるからです。
しかしここで、新たな疑念が沸きます。トランスジェンダーとは、文字通り「男/女」というジェンダーをトランス=越境していくものです。結果として様々な形態が現れるにせよ、ベースとなっているのはあくまで「男/女」という枠組みです。これを参照点に持たなければ、そもそもトランス=越えるという見方自体が成り立たないはずです。
〈生き方としてのトランスジェンダー〉は「男/女」の解体に向かいますが、解体し切ってしまっては自らの根拠を失うことになります。トランスであることにアイデンティティを求めるのは、右に指摘したように「MtFの目的は女になることでトランスであることではない」という意味で困難であるだけではなく、「男/女」を解体していく、ということとも矛盾してしまう一面があるのです。
これは〈生き方としてのトランスジェンダー〉の運動を否定するものではありません。一つの解決の見通しは、一定の水準まで目的が達せられた時に、今度はトランスジェンダーという枠組み自体を解体していくことです。トランスが原理として「男/女」に依拠せざるを得ないなら、最終的にはトランスのトランスとしてのアイデンティティすら放棄するのです。
この点についても、レズビアン/ゲイ・スタディーズから学ぶところがあります。同性愛が精神疾患のリストから外された後、それまで共闘してきた小児愛者のグループを切り捨てようとしたことがありました。一定の範囲で「普通」になれてしまった人々は、それ以上「レズビアン/ゲイであること」を旗印にする必要はなくなるのです。これは「ゲイが一枚岩ではない」といった単純な問題ではなく、むしろ帰属集団によるアイデンティティ確立という方法の限界と言えます。グループによる同一性は、その内的差異による分断や逆差別等の危険を常に孕んでいるからです。
そもそもレズビアン/ゲイという形で両者がパラレルであるかのように併置することもナイーヴです。これについては、レズビアン・フェミニズムという形で、セクシュアリティよりジェンダーを問題にする流れが生まれました。また、セクシュアリティを構成する多くの要素のうち、性対象の性別だけが大きく取り上げられること自体が偏った見方と言えますし、さらにセクシュアリティとは一人の人間を取り巻く様々な要素のうちの一つにすぎません。
レズビアン/ゲイ・スタディーズは、それ自体のうちに解体の契機を持つ必要があります。帰属集団による同一性だけでは、いずれタコツボ式に分断し無用の「内輪揉め」に陥る可能性があります。これを避けるには、帰属意識の強化や「大同団結」などではなく、むしろ帰属性自体を投げ捨てるべきでしょう。最終的にはレズビアン/ゲイという括り自体を解体し、ただバラバラにあること、比べようもなく「ヘン」であることを引き受けるのです。90年代から盛んになったクィア・スタディーズの立場は、ここに位置しているでしょう。ただし、クィア・スタディーズは落ち着き先の集団を持たない開かれた不安な立場です。現状で政治的要求を掲げる場合には、集団としてのアイデンティティを求める方が有利な面もあるでしょう。
残るトランス独得の実際的問題として、医療があります。GIDという概念自体を取り払ってかつ求める医療処置を受けることも不可能ではないですが、現状では一定の危険が伴います。〈生き方としてのトランスジェンダー〉と医療的処置は両立しないのでしょうか。この点について、次項で考えていきます。
右で「生き方」派に与する論を述べましたが、いくつかの暗澹たる観測を付しておきます。
トランスの問題に限らず市民派が軽視しがちなことは、当事者自ら状況の改善を望んでいない、ということです。一つには無知ゆえがあるでしょうし、また「余計なことに煩わされたくない」という場合があります。右で挙げた「最下層と最上位の結託」という構造もあります。ですが、トランスについてはより深遠な要素がいくつかあるように思われます。
かつてレズビアンの世界には、ブッチ/フェム(タチとネコ)といった役割関係がありました。このような「ごっこ関係」はヘテロを模したものであるとして時代錯誤的な扱いを受け、メインストリームではなくなりました。その後SMや小児性愛などを含むよりラディカルなセクシュアリティを主張する論により、切り捨てから再度拾い上げられつつもありますが、一度は「疑似ヘテロ的なもの」として排除される流れにあったことは間違いありません。しかし排除されたものは、そのまま焼却炉にでも行って燃えてしまうのでしょうか。
先の最下層の図式を考えると、疑似ヘテロ的なものはトランスという形で引き受けられている気がしてなりません。最下層は最上層に似る、という原則通りです。ヘテロ的な図式というのは、そう簡単に廃棄できるものではなく、呪いのように憑依するものです。さらに、これは「最下層」のトランスにヘテロセクシズムがとり憑いた、というよりは、もしかするとこの憑依自体にトランスの根があるかもしれないのです。つまりたまたま憑依されるポジションにトランスがいたということではなく、廃棄されてきた疑似ヘテロ的なもの自体が、ヘテロを模すことそのものが、トランスの目的である可能性も否めないのです。
だとすれば、紋切りの「解放」などを望まない当事者が少なくないのも理に適ったことです。呪われてあること自体を求めるなら、呪いの解除など必要ありません。
さらに言えば、この呪いとは単に「最上層のモデルにならう」ということではありません。「最上層のモデルに従おうとして、しかも従えないままでいる」という宙づり自体が呪いなのです。トランスとは完遂不可能な移行過程です。しかし完遂不可能性自体が目指すところだとしたらどうでしょうか。一見すると技術的障壁に阻まれているようなトランスですが、そもそも阻まれてあること自体が目的なら、解放も何も必要ありません。「そんなバカな」と思われるかもしれませんが、完遂不可能であることには大きな効果があります。「本当の自分」を未来に預けることで、現在の自分の精神を防衛ことができるのです。単に「本番前」の準備期間として猶予が与えられるだけでなく、「やがてくる本番にそなえて準備する」という形で人生に有意義に色付けられます。達成困難な目標ほど猶予は引き延ばされますし、これが不可能なら猶予は永遠になります。つまり、呪われてあることは、わたしたちの生にわかりやすい「生き甲斐」を付与してくれるのです。
こう考えると、〈生き方としてのトランスジェンダー〉の限界も見えてきます。第一に、トランスとしてのアイデンティティはせっかくの猶予を台なしにしてしまうゆえ、巧みにかわされるでしょう。第二に、このアイデンティティの確立は、「男/女」納まり切らないものであるにも関わらず「男/女」に依拠している、という前述の矛盾を抱えています。二つの論点は密接に結びつき、「永遠の偽者」という巧妙な立場を作り出しているのです。
これについては第四章で詳解します。また、トランスが「男/女」の中でしか生まれ得ない、ということについては第三章最終項で再び取り上げます。